司馬遼太郎氏の、街道をゆくシリーズの第一話の 湖西のみち で紹介されている場所であります。
大津の南志賀あたりから北小松を経て安曇川を上り、朽木にいたる街道のことを書かれています。
北小松の街の石積の良さや漁港でのやりとりなど、街の歴史と少し寂しげな田舎の風情を想像できます。
朽木村の足利将軍の庭が現存する興聖寺もお話にでてきます。
今も湖西や朽木は田舎ですが、司馬氏が訪れた時は今よりもっと寂しげであったと思います。
近江を制する者は天下を制すと戦国時代は言われた滋賀県。
東部は東海道や中山道がはしり、昔から交通の要衝の地。瀬田川に西と東が分断され瀬田唐橋も数々の歴史舞台に登場します。
湖西では大津の宮 比叡山延暦寺 日吉神社 坂本城 大溝城(高島市)などが主に有名です。近江神宮は建立が新しく昭和年代ですが、かるた聖地としては日本だけでなく、世界中の、かるた愛好者には名の知れる場所ですね。
比叡山の山並みと比良山系を琵琶湖との間に阻まれた細長い地形ですが、もっと細かくみればいろいろな名勝の地が存在します。
和邇という地名は、かっての豪族、和邇氏 蘇我氏 物部氏 の和邇氏の所有地があったのか分家が存在したかは知りませんがなにかつながりがあるのでしょう。
和邇にも重要文化財の鎌倉時代や室町時代の神社が存在します。
以前は静かな湖面に佇む鳥居を湖岸からゆっくり眺める厳かな静かな神社でしたが、今は連日多くの参拝客が訪れる、たいそうな人出の神社となりました。
近江最古の神社といわれる神社ですが、本殿の建立は慶長8年とされています。湖西各地に白髭道標が7ヶ所ほど
いまでも存在するそうです。日常、私は3ヶ所はよく目にします。
国道161号線を北上し、大物を過ぎてガソリンスタンド手前の信号を西に曲がり、しばらく細い山道を進んでいくと
石がゴロゴロしてきます。森の道を抜けて少し開けた場所に車を止めて、低い石組みの土手をあがると、
大きな無数の石の地盤が目前にひろがります。
大型の重機がないととても動かせない大きな石が分厚い堤防となり連なっています。
昔の度重なる河川氾濫を防ぐために造られた石の堤防はこれから数百年いやそれ以上にここに存在しつづけて
地域を水害から守っていくことでしょう。すごいな昔の人って。
毎年10月に行われる 大津市 天孫神社の例祭。13基の曳山がコンチキチンとお囃子とともに優雅な装飾に施され巡行します。巡行の順番はくじ引きのようですが、先頭は西行桜狸山の名の曳山は固定された1番です。
曳山の巡行コースのひとつの寺町通りは子供のころはいろいろなお店が立ち並び、その通りでひと通りの買い物ができるほどの多様なお店が連なってましたが、いまでは店舗数も減り、居酒屋、飲食店、食品店などに絞られて当時とは違うたたずまいの通りです。
歌川広重の近江八景は有名です。八景に内、七つまでは大津市です。矢橋帰帆は草津です。
湖西側では、三井晩鐘 唐崎夜雨 堅田落雁 比良暮雪 でしょう。昔から風光明媚な景観が好まれて、今もなお、美しい景色は湖西には存在しています。
堅田落雁に描かれている、比良山系の南端の霊仙山はそれほど高い山ではありませんが、絵では雁の群れの背景に美しい色で描かれています。
角栄板の比良暮雪は金糞峠からの遠景で琵琶湖を見通して対岸まで忠実に描いてあり、あの険しい比良の山々を登山して絵にしたのでしょう。
近江の国と昔は呼ばれていた滋賀県。現在の滋賀県はほぼそのまま近江の国をひきついでいます。
このサイト内で湖西といえば和邇から北小松を主に書いておりますが、一般的には大津市の三井寺あたりから、高島市の近江高島あたりが湖西ではないかと思います。
この範囲は歴史上では要衝の地がおおく、港や城塞がおおく存在しました。城に関していえば、滋賀県の城跡は約1300箇所といわれます。
多くが湖東や甲賀地域に分布しますが、国内で一番多いのではと思います。湖西でも、大津城から園城寺城、宇佐山城 坂本城 衣川城 堅田陣屋 生津城 北比良城 打下城 大溝城 ・・・ほかにもまだまだあると思います。
大津城、坂本城 大溝城は有名ですが、大津城の天守は彦根城天守となり移築されたとのことです。
立派に天守が存在する城郭どころか郭もハッキリしない城跡ばかりですが、元亀天正時代を主に存在した城はとてもロマンを感じます。
唐橋を制するものは天下を制するといわれた、瀬田唐橋は歴戦の場所。なかでも最古の大乱?といえば壬申の乱です。
舞台は関ヶ原や近江内で最終決戦の場が瀬田川の唐橋。ここで大海人皇子(後の天武天皇)に敗れた大友皇子(天智天皇の第一皇子といわれる)のお墓が大津市役所の西の警察学校の横にあります。大津市役所の隣といったほうがわかりやすいです。(弘文天皇陵)
歴代天皇に即位したはっきりした記録はあるかどうかわかりませんが、39代天皇で弘文天皇と伝えられています。
個人的な感想ですが、歴史の中心地であり数々の時事の舞台である近江の国なのに天皇陵が一か所のみとは少ないような気がします。
江戸時代初頭に江戸日本橋を起点に約4㎞ごとにたてられた目印(当初は樹木)が和邇の商店街の交差点の真ん中にあります。昭和のいつごろからか石碑となりましたが、それまでは榎が植えてあったようです。なので
通称 榎の交差点。いまではのこっている一里塚は少ないでしょう。
京都方面からは途中越えで、伊香立途中町の信号を左に折れてまっすぐ降りてきたらこの榎の交差点です。狭い十字路の信号などない交差点の真ん中に石碑があるので、ドライバーの方が石碑の手前でまわるのか奥でまわるのかいろいろな曲り方をする変わった交差点です。
水のせせらぎが、そこかしこで聞こえるのが比良の山。
志賀の荒川のバイパスより上につづく道の途中に、小さな神社が建っています。創建の時期は不明?
小さな境内は美しく整備されており山奥の神社としてはすばらしく綺麗です。
現在はJR湖西線が高架鉄道として、日々湖西の住民みなさんの日常生活の重要な役割をしていますが、
そのむかし、大正10年から昭和44年まで、浜大津から近江今津までの約50㎞の区間を
単線列車が走っておりました。現在の湖西線ルートにほぼ近い位置で、大きく区間ルートがずれている場所もありますが随所のルートで湖西線と重なる場所が多くありました。
江若鉄道時代は単線での気道列車なので速度はいまの電車よりもゆっくりで、開業しばらくは蒸気機関車、
時代の流れでガソリン車、ディーゼル車へと車体は更新されながら、日々の生活のインフラや
また、琵琶湖沿線観光のための観光列車としてながく利用されてきました。
琵琶湖沿いに走る姿は昔写真でみることができます。大津歴史博物館
白髭神社前などは、神社と琵琶湖の鳥居の間のわずかな幅(現在R161)が線路でしたので
車窓からみる大鳥居はさぞ美しい景色であったと思います。
比良山系と琵琶湖との間に細長く連なる湖西地域ですが、近江の国の西岸だけあり、それなりの寺社が存在します。
それらのお寺や神社には仏像や掛け軸、巻物、鏡など古い遺物が残されています。
歴史博物館で企画展が開催され、展示物が居並ぶほどの物量です。
比良の山中には古代寺院跡など見うけられます。さすがに古く当時の面影はありませんが。
江戸時代前期の1662年 湖西琵琶湖沖の震源でマグニチュード7程度の大きな地震が発生しました。
田畑の水没などもあったようで、比良山系の武奈ヶ岳付近で大崩壊をおこし、鯖街道の現在の梅ノ木あたりの集落が崩壊土砂に埋もれて560人ほどが亡くなられた災害です。
葛川をせき止めて天然ダムを形成して後、崩壊してさらに被害が広まった言い伝えがあります。現在、採石場所として利用されています。地図では武奈ヶ岳のやや南の通称イオウハゲといわれる場所が崩壊跡です。
明治時代の地図には崩壊跡が生々しく記されています。
西川真悟建築設計 一級建築士事務所
〒520-0528 滋賀県大津市和邇高城270-14
Tel: (077) 594-0008 Fax(077)507-6762
メール: [email protected]